2017年06月01日

バッティストーニ講演会(2017年5月27日)

 当協会とイタリア文化会館主催により、指揮者アンドレア・バッティストーニ氏の講演会が、イタリア文化会館アニェッリ・ホールで、2017年5月27日に開催されました。
 バッティストーニさん(以下、バッティと呼びます)の講演会については、東京二期会公演《リゴレット》(2015年2月)および《イル・トロヴァトーレ》(2016年1月)の前にも開催し、今回が三度目になります。今回は、本年9月にBunkamuraで予定されている東京フィルハーモニー管弦楽団の演奏会形式《オテッロ》公演に関連する話題を中心にお話しいただきました。(司会は加藤浩子さん、通訳は井内美香さん)
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 詳しい内容は、Bunkamuraホームページに掲載される予定ですので、ここでは、筆者にとって印象に残ったことをご紹介します。

 《オテッロ》についての話は、アッリーゴ・ボーイトの重要性を強調するところから始まりました。彼がヴェルディの台本作者であったことと、オペラ《メフィストーフェレ》の作曲家でもあったことは、日本でもよく知られていますが、バッティによると、19世紀末のイタリアを代表する詩人でもあるそうです。ボーイトの詩は、リズム、韻、抑揚などがとても音楽的とのことでした。
 そのボーイトがスカラ座でふたつの失敗をしているという話も面白いものでした。
ひとつは、彼の台本にフランコ・ファッチョが作曲した《ハムレット》。シェイクスピアの原作の要所をしっかり捉えたボーイトの台本はとても優れたものでしたが、いかんせん、ファッチョの曲が悪すぎ「凡庸なだけではなく新しくもなかった」「ヴェルディ初期のいわゆるガレー船時代の作品からの拝借と、《ローエングリン》の下手くそなコピーでしかなかった」というもの。これに懲りたファッチョは二度と作曲しようとしなかったとか。(ファッチョは指揮者としては大成し《アイーダ》イタリア初演、《オテッロ》初演などを行っています。)
 もうひとつの失敗は、ボーイト自身が作曲した《メフィストーフェレ》の初演。この初演版の楽譜は現在残っていないのだそうですが、役者だけで演じられる幕や器楽のみのシンフォニーが挿入されるなど革命的な内容であったため、賛否両論が過熱して劇場内で乱闘沙汰が起き警察が介入する騒ぎになったとのこと。その後大改訂を経た第二版は成功し、現在まで生き残る作品となっているわけですが、ヴェルディもこの作品の価値を認め、音楽的に影響を受けているとのことでした。
 ジューリオ・リコルディのおぜん立てにより、《オテッロ》に入る前のヴェルディとボーイトの共同作業の試運転として《シモン・ボッカネグラ》の改訂が行われました。この改訂版でもっとも感動的な場面が、ボーイトによって全面改訂された第1幕第2場「会議の場」です。この場でシモンの命令によりパオロが自分で自分を呪うところがバッティは一番好きなのだそうです。(筆者注:この改訂版《シモン・ボッカネグラ》については、「会議の場」でペトラルカの手紙を登場させるなどの原アイデアはヴェルディが発案し、ボーイトがそれをドラマに仕立て上げていくという過程がよくわかるふたりの間の書簡のやりとりについてが、6月末発刊予定の当協会会報VERDIANA39号に掲載される小畑恒夫「ヴェルディの手紙を読む(27)」で紹介されます。ぜひご覧になってください。)
 さて、その《オテッロ》について、ボーイトは個性的な解釈をしている、とバッティは言います。一例として挙げられたのはヤーゴの造型。シェイクスピアのヤーゴは曖昧な性格を持っていますが、イタリアの聴衆はそうした曖昧を好まないことを(失敗を経験したことで)熟知したボーイトは、完璧にネガティブで悪魔的な存在として創り直した、というのです。そしてそうした人物像を音楽として描き切ったのはヴェルディの才能である、と。典型的な例が第2幕冒頭の<悪のクレード>。原作にはないこの場面、歌詞の内容だけ追うと「俺は悪いやつなのだ」と言ってるだけのようにも見える。それを完璧にネガティブな存在として説得力をもって描き切ったのは音楽の力なのでした。
 このバッティの指摘は、非常に興味深いことです。シェイクスピアの原作におけるイアーゴーは、戦功ある自分を差し置いてキャシオーに副官の座を与えてしまったということのほかに、オセローが自分の妻(エミーリア)を寝取ったと思い込んでいます。その意味では原作のイアーゴーの方がオセローに対して悪意を抱くわかりやすい動機をもっている、といえるのです。それなのにバッティはあえて原作の方が「曖昧な性格」だとしました。それはなぜか? オペラのヤーゴは「妻を寝取られたことへの復讐」というような低次元の動機は口にしません。その代わりに<悪のクレード>を歌うのです。これにより、ヤーゴが持つ「悪意」はより純化され、根源的な人間の業(ごう)であるとか、神あるいは善なるものへの挑戦、という先鋭化された概念として提示されることになります。それが「完璧にネガティブな存在」としてのヤーゴ、というバッティの言葉の意味することではなかったか、と筆者は思うのです。
 さすがに文学にも造詣が深いバッティです。同じようにデズデーモナについても、オペラの方が「イノセントな存在」としての単純化、純化が行われていると思います。それについても聴いてみたかったところですが、残念ながら時間がありませんでした。
 こうして、原作との対比まで考察しながらテキストを深く読み込んでいるマエストロが、演奏面ではどんな解釈を見せてくれるのか。ハイテクを駆使した演出も考えられているとの話もありました。9月のオーチャードホールでの演奏会がとても楽しみです。     (Simon)
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写真提供:Bunkamura コピーライトマーク上野隆文
posted by NPO日本ヴェルディ協会 at 17:22| Comment(0) | 講演会報告