2017年10月19日

パルマ・フェスティバル・ヴェルディ2017

 ヴェルディの誕生日(10月10日)を記念して、その前後にパルマとブッセートではパルマ・テアトロ・レージョ(王立劇場)が主催するフェスティヴァル・ヴェルディが毎年開催されます。今年の音楽祭の期間は9月28日から10月22日まで。筆者は10月11日から16日までパルマに滞在し、下記3公演を聴きました。
20171011_113713207_iOS.jpg
20171011_113658605_iOS.jpg

1.《イェルサレム》(2017年10月12日、テアトロ・レージョ)

 ガストン(ベアルヌの子爵):ラモン・ヴァルガス   
トゥールーズ伯爵(十字軍の司令官):パブロ・ガルヴェス
 ロジェ(トゥールーズ伯の弟):ミケーレ・ペルトゥージ  
エレーヌ(トゥールーズ伯の娘):アニック・マシス
 アデマール・ド・モントゥイユ(教皇特使):デヤン・ヴァチコフ
 レイモン(ガストンの侍臣):パオロ・アントニェッティ
 ラムラの太守:マッシミリアーノ・カッテラーニ
 太守の家臣:マッテオ・ローマ 伝令/兵士:フランチェスコ・サルバドーリ
指揮:ダニエレ・カッレガーリ  演出:ウーゴ・デ・アナ
 照明:ヴァレリオ・アルフィエーリ(プロジェクト・デザイナー:セルジョ・メタッリ)
 振付:レダ・ロジョディーチェ  合唱指揮:マルディーノ・ファッジャーニ
 アルトゥーロ・トスカニーニ・フィルハーモニー交響楽団  パルマ王立劇場合唱団
20171011_114334336_iOS.jpg

 《イェルサレム》はヴェルディが34歳の時にパリのオペラ座のために作ったオペラで、めったに上演されない作品であるため、筆者もナマで聴くのはこれが初めて。ヴェルディがパリに滞在していた短い期間に仕上げる必要があったため、4年前にイタリアで大ヒットした《第一回十字軍のロンバルディアの人々》(以下《イ・ロンバルディ》と略す)を改編して作られました。このため、ヴェルディの正式の作品リストには入れないこともあるのですが、バレー曲をはじめとして新たに作曲した部分も多く、フランス語で歌われるということも相俟って、《イ・ロンバルディ》とかなり印象が違う作品になっています。筋書きも、登場人物を歴史上実際に第一回十字軍の中心人物であったトゥールーズ伯をめぐる人々に置き換え、《イ・ロンバルディ》に比べると無理のないものになっています。
 ガストン(T)、エレーヌ(S)、ロジェ(B)の3人が主役といっていいこのオペラの中で、この日は特にロジェを歌ったミケーレ・ペルトゥージの出来が良く、地元出身ということもあって大喝采を受けていました。ロジェは、姪にあたるエレーヌに横恋慕し、その結婚相手のガストンを無実の罪に陥れる悪辣な男ですが、後に改心して砂漠の隠者として聖人扱いされる、という単なる悪役ではない複雑な性格です。しかも恋敵役でもあるキーロールなので、ヴェルディ作品の通例であればバリトンがあてられ、トゥールーズ伯の方をバスが歌うということになりそうなはずですが、オリジナルの《イ・ロンバルディ》のパガーノもバス役であったことと、パリ初演のロジェを歌ったアドルフ=ルイ=ジョゼフ・アリザールという優れたバス・バリトン歌手がいたためと、思われます。ペルトゥージは、バス歌手としては低音の響きに特に凄みがあるというわけではないのですが、柔らかい発声でフランス語も巧く、しかもヴェルディらしい劇的な要素を陰影深く表現できていたと思います。
 ガストン役のラモン・ヴァルガスも、さすがに日本でもおなじみの一流歌手だけに張りのある声で安定感のある歌唱をみせてくれました。《イ・ロンバルディ》で主役テノールが歌うオロンテは、イスラム教徒側のため第2幕からの登場でしかも死んでしまって亡霊となるというやや傍系の役割ですが、この作品ではヒロインのエレーヌと恋仲のフランス貴族として第1幕から登場し、無実の罪を着せられて放逐されるという立場となります。つまり、オロンテよりもより一貫したオペラの主人公になるわけで、パリ初演でこの役を歌った名テノール、ジルベール・デュプレを引き立てる役作りになっているのです。ヴァルガスの存在感と役作りはそうした立場にふさわしいものになっていました。
 実は、このヴァルガスとペルトゥージのふたりについては、筆者は20年前(1997年11月)にニューヨークのMETでバルトリが《チェネレントラ》(レヴァイン指揮)に主演してセンセーションを巻き起こしたときに、ラミロとアリドーロで共演していたのを聴いたことがあります。(終演後に楽屋でペルトゥージにその話をすると彼もよく憶えていました。)まだ若くてロッシーニを軽やかに歌っていたふたりが、今や堂々たるヴェルディ歌いになっているわけです。あの頃に比べるとヴァルガスは体もずいぶん太めになりました。
 エレーヌのアニック・マシスは、以前に聴いた時に比べると特に前半が苦し気な発声に聞こえたので調子があまりよくなかったのか、美声ではあるのですがフランス語ネイティブのわりに言葉がやや不明瞭でした。それでも精彩を欠くというほどではなく、カーテンコールでも厳しいと言われるパルマの聴衆から暖かい喝采を受けていました。
 カッレガーリの指揮は手堅く、引き締まったもので、暗めの物語ながらフランス風の華やかなところもある音楽をうまく聴かせてくれました。特に、第3幕の太守のハーレムのシーンでは、かなり長いバレーシーンがあるのですが、緩むことなく緊張感を維持していたのはさすがだと思います。
 ウーゴ・デ・アナの演出は、彼のものとしては比較的奇をてらうところもなく、流行りの映像を使うもののそれだけにたよることないのダイナミックなものでした。たとえば、第2幕以降のパレスチナが舞台の場面になると、前方の紗幕に荒涼たる岩山の映像を写すとともに舞台には音をたてて砂が降ってきます。最初はそれも映像かと思ったのですが、登場人物たちの足跡がつくので舞台上が本物の砂で覆われていることがわかりました。中東の苛烈な環境を砂漠のイメージで強調し、十字軍や巡礼たちの置かれた厳しい状況がヴィジュアルにわかる仕組みです。
 舞台前面の紗幕は全幕を通して張られたままで、様々の映像がプロジェクションマッピングで投影されます。舞台が暗い時には映像が中心となり、明るくなると舞台の動きが中心となりますが、その中間の紗幕の映像と舞台の風景をダブらせる場面もあります。
 映像は、前述の岩山など情景を説明する画像のほかに、宇宙を運行する天体とその円の中心にキリストの顔が現れる画像や、ラテン語の文字、とりわけ「DEUS VULT(神はそれを望まれる)」という聖墳墓騎士団のモットーとその紋章(白地に大きな赤い十字架とその四方に小さい赤い十字架が描かれている)が繰り返し登場します。そこからは読み取れるメッセージはおそらく「多くの人々の命を落とし、苦しみを生んだ十字軍という壮大な企ては、本当に神が望まれたものだったのか?」という問いかけではなかったか、と思います。
 なお、パルマ歌劇場は現在、常設の管弦楽団を持たないため、地元のトスカニーニ・フィルを起用することが多いようです。合唱団は持っていますから、東京の新国立劇場と似たような体制です。
20171012_171909308_iOS.jpg
20171012ParmaJersalem.jpg

2.《スティッフェーリオ》(2017年10月13日、テアトロ・ファルネーゼ)

 スティッフェーリオ(プロテスタントの牧師):ルチアーノ・ガンチ
 リーナ(その妻):マリア・カツァラーヴァ
 スタンカー(伯爵でリーナの父):フランチェスコ・ランドルフィ
 ラファエーレ(若い貴族、リーナの不倫相手):ジョヴァンニ・サーラ
 ジョルジ(老牧師):エマヌエーレ・コルダーロ
 フェデリーコ(リーナの従弟):ブラゴイ・ナコスキ
 ドロテーア(リーナの従妹):チェチリア・ベルニーニ
 指揮:グイエルモ・ガルシア・カルヴォ  演出:グレアム・ヴィック
 装置・衣装:マウロ・ティンティ  照明:ジュゼッペ・ディ・イオリオ
 振付:ロン・ハウエル       合唱指揮:アンドレア・ファイドゥッティ
 ボローニャ歌劇場管弦楽団・合唱団

 《スティッフェーリオ》の公演は、パルマ歌劇場ではなく、ファルネーゼ家のパルマ公、ラヌッチォ1世(1569-1622)の時代に作られたピロッタ宮殿という建物の中にあるファルネーゼ劇場で行われます。サッビオネータにあるテアトロ・オリンピコを一回り大きくした感じの古代様式の劇場ですが、17世紀の後半以降は劇場としてあまり使われず荒廃していたものをヴェルディの時代のパルマ領主マリア・ルイジア(ナポレオンの皇后だったハプスブルグ家皇女)が修復したものの戦災で再び破壊され、戦後に再現復旧したものです。平土間は舞台に向かって細長長方形で入口側が半円形となっており、周りを木製の階段状の客席が取り囲み、さらにその上は古代ローマ風の柱廊が2層あるため天井はかなり高くなっています。
20171013_081723205_iOS.jpg
 今回のグレアム・ヴィックの演出では、この劇場の構造を大胆に使う刺激的なものでした。まず通常の舞台はプロセニアムの部分に大きな幕がかけられ使用しません。その幕の前上手側にオーケストラボックスが設置され、指揮者は平土間側に顔を見せる形で棒を振ります。さらに指揮者の姿を映すモニターが三方の壁にも設置されているので、場内どの方向を向いていても指揮者の姿を観ることができるようになっています。
 観客は平土間の好きな場所で立ったままオペラを観るかたちとなります。そうした観客たちで埋め尽くされた平土間のあちこちに高さが人間の肩くらいで広さがおよそ3m四方の可動式の台がいくつも浮かぶように置かれ、いくつかを組み合わせたり離れたりして様々の島を形づくります。島によってはベッドや机、十字架が置かれているものもあります。ソリストたちは主にこのさまざまに変化する島状のステージの上で歌い演技します。
観客たちはその島を取り囲んで鑑賞するので、オペラ歌手の足元、かぶりつきで聴くということになったりします。場内は非常に音響がいいので、歌手の後ろ側の位置でも声はよく聞こえます。またある歌手は遠く、ある歌手は近い場所で歌っていたり、合唱も平土間のある片隅にいたり階段席で歌ったりと場所を変えますが、意外に音はまとまって聞こえるのでそれほどバランスが悪くもならないのです。平土間にいると、木製の階段席が2〜3階の高さでちょうとラッパのように天井に向かって開き、さらにその上に大理石の柱廊が2階分垂直に立って木製の天井を支えているので、残響が大きすぎず小さすぎもしない、大きさもほど良いホールならではの演出法と言えそうです。
 観客は歩き回ることができるといっても実際には人込みの中なので、そう自由に動けるわけではありません。多くはその場に立ちつくして音楽に耳を傾けることになります。
 さらに油断がならないのは、入場パスを赤いストラップで首からかけた観客と全く同じ恰好をした役者や合唱団員が多数紛れ込んでいて、突然隣で歌いはじめたり、演技を行ったりするのです。演技も半端なものではなく、取っ組み合いのけんか、ゲイのカップルのキス、服を脱いでパンツ一丁の裸になり両手を広げて十字架のキリストのポーズをとる、といった刺激的なものなのです。
20171013_183649146_iOS.jpg
 音楽をゆっくり鑑賞するのに最適な環境とはいえませんが、スリリングで新鮮な体験であることは確かで、パフォーマンスとしては非常に面白いものでした。上演機会が少ないヴェルディの作品をこのような形で演奏することには賛否両論あることは確かでしょう。例えば今回筆者がパルマでお世話になった声楽教師・コレペティトゥアの田中久子先生は、断固反対だとおっしゃっていました。ヴェルディの初期と中期傑作群の間の過渡期にあるこの作品は、繊細な音楽なのでもっと落ち着いた形できちんと提供すべきだ、とのこと。そのご意見にも一理あります。しかしながら私は、過渡期であるがゆえに素晴らしいところとやや退屈になるところが混在するこの作品を、こうした刺激的な方法で味わうのもひとつの芸術体験として「あり」だと感じました。
 このオペラのお話は、19世紀前半、オーストリア帝国内のスタンカー伯爵の城で城主の娘リーナの夫である牧師スティッフェーリオが布教の旅を終えて帰ってくるところから始まります。彼はこの地方のプロテスタント信者から熱狂的に支持され、尊敬されている人物なのです。ところが、実はリーナは夫の留守中に若い貴族ラファエーレに誘惑されて浮気をしてしまい、大いに反省中。そしてそれに気づいた父親のスタンカーは名誉を汚されたと怒っている、という設定です。有名な人格者の妻が不倫、といういかにも現代にもありそうなスキャンダラスなお話ですから、登場人物が現代の服装をしていることにもあまり違和感がありません。それに、もともとこの台本の原作となったフランスの小説および戯曲も当時の「現代もの」であったということもあります。聖職者が結婚しており、しかも不倫される、劇中で離婚契約が署名される、など当時のイタリアの常識からすると破天荒な内容であり、検閲を気にしなかったのが不思議なくらい(実際、この作品は初演当時からずっと検閲に悩まされることになり、後にヴェルディは改作の《アロルド》を作りこの作品の上演はあきらめる)ですが、それだけに私生活でストレッポーニとの関係に悩んでいたヴェルディを惹きつけたお話でもあったわけです。
 そうした劇的で生々しい人間の悩める姿を描くことが目的であるとすると時と所の設定はどこでもいい、というのがヴィックの考え方なのでしょう。そして、手が届くような場所で歌手が熱演することにより、その生々しさも鋭く伝わってくるのでした。
20171013_200722175_iOS.jpg
 歌手の中では題名役のガンチ(T)とリーナ役のカツァラーヴァ(S)がよく響くスピント系の声で好演でした。特にリーナは、劇的な表現力とアジリタの両方が要求される難役です。そしてこの演出ではかなりの演技力も要求されます。カツァラーヴァは容姿のハンデ(太目で大根足)を忘れさせる見事な歌唱と演技だったと思います。
 スタンカー役もバリトンとしてはテッシトゥーラが高く技巧的な歌唱を要求される難役です。ランドルフィ(Br)は、上述の二人に比べると声量は落ちるのですが、歌唱力と巧さでカヴァーして不足感はありませんでした。
 コンプリマリオ(準主役)のラファエーレとジョルジも充実。前者のサーラは、細身のイケメンテノールで、いかにも女たらしの軽薄な青年をうまく演じていましたし、後者ののコルダーロも、バスらしい深みのある声で主役を支えていたと思います。

3.《ファルスタッフ》(2017年10月15日、テアトロ・レージョ)

 ファルスタッフ:ミハイル・キリア フォード:ジョルジョ・カオドゥーロ
 フェントン:フアン・フランシスコ・ガテル カイウス:グレゴリー・ボンファッティ
 バルドルフォ:アンドレア・ジョヴァンニ ピストーラ:フェデリーコ・ベネッティ
 フォード夫人アリーチェ:アマリリ・ニッツァ ナンネッタ:ダミアーナ:ミッツィ
 クィックリー夫人:ソニア・プリーナ ページ夫人メグ:ユルジータ・アダモニテ
 指揮:リッカルド・フリッツア 演出:ヤーコポ・スピレーイ
 装置:ニコラウス・ヴェーベルン 衣装:シルヴィア・アイモニーノ
 照明:フィアンメッタ・バルディゼーリ 合唱指揮:マルティーノ・ファッジャーニ
 アルトゥーロ・トスカニーニ・フィルハーモニー交響楽団 パルマ王立劇場合唱団
20171015_131418879_iOS.jpg
 この日は、アリーチェ役のニッツァ以外はあまり有名どころの歌手は出ていませんが、歌唱も演技も巧者揃いで、指揮者のリッカルド・フリッツァの見事な統率のもと実に生き生きとしたアンサンブルを楽しむことができました。
 題名役は、他の公演日ではロベルト・ディ・カンディアが歌い、ミハイル・キリアは最終日のこの日のみの登場でしたが、他のキャストとの息もぴたりと合い、まだ若いはずですが堂々たる演奏でした。以前はファルスタッフというのはは功成り名遂げたベテラン・バリトンが最後に取り組む役というイメージが強かったものですが、ターフェルやマエストリ以降は、比較的若いうちからこの役に挑戦することが増えているようです。
 他のキャストの中では、フェントンのガテルとナンネッタのミッツィという若いカップル役のふたりが瑞々しいリリコの声で光っていたと思います。
 ヤーコポ・スピレーイ演出の舞台は、現代の英国への置き換えで、ウィンザーというよりはもう少し下町っぽい架空のロンドン近郊の町というイメージ。ナンネッタはダイアナ妃風の金髪ショートヘアに濃いアイライン、ミニスカートに厚底のブーツでしょっちゅうスマホをいじっている、といういかにもロンドンにいくらでもいそうな現代娘。一方のフェントンもキルト風ながらタータンチェックではなく黒革のスカート姿という現代青年。他の大人たちも現代風衣装ながらそれぞれの役柄をホーム・コメディー調に戯画化したような姿でなかなか楽しめました。
 全体として、指揮も演出も、ヴェルディ最後のオペラにして音楽的にも高度な作品に対する敬意は失わないものの、決して重々しくはなく、軽みと喜劇性を十分に表現するものになっていたと思います。
(Simon)
20171015_160802094_iOS.jpg

posted by NPO日本ヴェルディ協会 at 01:36| Comment(0) | オペラ考
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: