当協会とイタリア文化会館の主催により、指揮者のジャンパオロ・ビサンティ氏とバリトンのアルベルト・ガザーレ氏による講演会が、イタリア文化会館アニェッリホールで6月19日に開催されました。
おふたりは、6月22日から始まるバーリ歌劇場来日公演のために来日。この日は日本に到着されたばかり、直前までリハーサルをされていたその足で会場に駆けつけてくれたものです。その疲れもみせず、今回上演する《イル・トロヴァトーレ》のお話を中心に、ガザーレ氏の実演も含め熱のこもった楽しいトークが繰り広げられました。
ピアノは間嶋純子さん。通訳は井内美香さん(当協会会員)。司会は、この企画のために尽力した音楽評論家で当協会理事の加藤浩子が担当しました。

(以下のお話は、筆者がとったメモにより再構成したもので、必ずしも正確でないかもしれません。内容についての責任は全て筆者にあります。)
冒頭、加藤氏による紹介がすむと、ピアノはすぐに《イル・トロヴァトーレ》第1幕のルーナ伯爵登場シーンのメロディを奏で、いきなりガザーレ氏がルーナ伯爵のレチタティーヴォを歌ってくれるところから対談が始まりました。
司会「ありがとうございます。ガザーレさんは、このルーナ伯爵役を既に何度も歌っておられますが、最初はムーティ指揮でしたよね?」
ガザーレ「そうなんですが、私は今回日本でこの役を歌うことを大変幸せに思っています。なぜなら、現在この作品を振らせたら世界一の指揮者と一緒に歌うのですから。(笑)」
ビサンティ「ありがとう(笑)。ちょっとほめすぎだよ。さて、私にとっては《イル・トロヴァトーレ》の上演は、今回の来日公演が3つめのプロダクションということになります。ヴェルディという作曲家は、長い生涯(1813〜1901)にわたり多様な作品を書いていますので、演奏するにあたっては、その作品が全体の中でどのような位置づけにあるのか、ということをまず考える必要があります。27作品(26のオペラおよびレクイエム)のうち、《オベルト》(1839)から《ナブッコ》(1842)までの最初の3作品は、実質的に主にドニゼッティの影響を受けたベルカント様式でできています。その後、《マクベス》(10番目の作品、1847年初演)によって彼独自の世界を切り開きました。後期にいたるとワーグナーの影響が出てきます。《シモン・ボッカネグラ》(20番目、1857年初演)、《仮面舞踏会》(21番目、1859年初演)あたりからですね。その中間にあって中期三大傑作といわれる《リゴレット》(16番目、1851年初演)《イル・トロヴァトーレ》(17番目、1853年初演)《ラ・トラヴィアータ》(18番目、1853年初演)の中でも、《イル・トロヴァトーレ》は真ん中に位置するわけです。これらの人気ある3作品は全部違う性格を持っていますが、一番上演が難しいのが《イル・トロヴァトーレ》でしょう。ソプラノ、メッゾ・ソプラノ、テノール、バリトン、バスの「5つの最高の声」を揃えなければならないからです。
そして、また《イル・トロヴァトーレ》は、ベルカント・オペラの伝統との結びつきも一番強い作品です。一方で《リゴレット》は《マクベス》と同じような様式をもち、革新的な要素が強い作品となっています。
3作品ともバリトンの声を中心に展開しますが、それぞれに要求されるバリトンの性質も大変違っています。リゴレットは、皮肉な運命に翻弄される父親として悲劇的で哀れな人物を描かなければなりません。《ラ・トラヴィアータ》のジェルモンは、ノーブルでカンタービレな歌唱が要求されます。これに対し、《イル・トロヴァトーレ》では、作品全体はベルカント的であるにも拘わらず、バリトンにはSuper Uomo(卓越した男)としての強い性格とヴェリズモ的な表現力が必要とされるのです。
いずれにせよ、ヴェルディがバリトンという声を愛していたことは確かでしょう。それに対して、ソプラノは歌うのが難しいものが多い。あまり好きではなかったのかもしれません。(笑)」
ガザーレ「たしかに、ヴェルディ全体を知っておくことは大事ですね。初期の<ガレー船の時代>といわれた作品群、中期の3作品、そして後期という中で《イル・トロヴァトーレ》はちょうど真ん中です。」
ビサンティ「《イル・トロヴァトーレ》は、初演の時から《ナブッコ》以上の大成功でした。観客が既に新しい時代が始まっていることを理解していたからだと思います。ワーグナーに対抗する世界です。もしかしたらヴェルディは《オテッロ》と《ファルスタッフ》でワーグナーをからかったのかもしれませんよ。ワーグナーが8時間かけて表現することを俺なら3時間に圧縮してやってみせるよ、と。(笑)」
ガザーレ「《オテッロ》ではレチタティーヴォも進化していますね。」
と言って、ガザーレ氏は《オテッロ》第2幕でヤーゴがオテッロに夢をみたという話をする箇所を歌ってみせます。ピアノの間嶋さんは《イル・トロヴァトーレ》のヴォーカル・スコアは持ってきていますが《オテッロ》の楽譜はありません。なんと、直前にガザーレ(いつも楽譜を電子ファイルにして持ち歩いているそうです)からWhatsApp(イタリア版のLINE)で送信してきた楽譜を小さなスマホの画面をのぞき込みながら弾いています。
さらに、ガザーレ氏は、夢の話のあとでヤーゴが「デズデーモナ様がいつも手にお持ちになってる花の刺繍のはいった布地をご存じで?」と言うのに対しオテッロが「あれは最初の愛の印に私が贈ったハンカチだ」というやりとりの部分まで、つまりテノール・パートまでも歌ってしまいます。
ガザーレ「《オテッロ》は実験的な作品で、芝居と同じ上演時間で演奏できるようにセリフの部分を歌で表現する技術を開発しているのです。
《セヴィリアの理髪師》の時代のレチタティーヴォは違います。オーケストラはなしで、チェンバロの和音にのせる「レリタティーヴォ・セッコ」という形式でフィガロはセリフを言います。(ピアノに合図して、伴奏部の和音を弾いてもらう。)
モーツァルトもこの形式で書いていますが、彼だけは特別なところがあります。速く弾いても遅く弾いても傑作であることに変わりがない。歌で意味を伝える「モーツァルトの魔法」を使っています。(筆者注:レチタティーヴォだけに劇の進行を委ねていない、ということを述べてるのだと思います。)
モーツァルト以外の作曲家は、もっと真っ正直に、単なるセリフの部分としてレチタティーヴォを使おうとしています。ロッシーニやドニゼッティやベッリーニの時代のお客というのは必ずしも真面目に舞台に集中しているわけではなく、飲食をとりながらオペラを観ていました。アリア以外はちゃんと聞いていなかったかもしれません。劇場は娯楽と社交の場所だったのです。
ヴェルディとワーグナーがそうしたオペラの在り方を変えていきました。
ところで、《イル・トロヴァトーレ》はベッリーニ的な世界も持っています。」
<Il balen...(君のほほ笑み)>の冒頭部分を歌ってみせる。
ガザーレ「この曲の伴奏部分の分散和音はベッリーニですよね。この作品はベル・カントの要素がたくさん残っています。でも、ひとりの女性がはみ出していますね。そう、アズチェーナです。彼女は全く新しい人物像ですね。」
と言って、第2幕冒頭のアズチェーナのアリアのさわりをファルセットで歌ってみせる。
ガザーレ「これは、バラード。ふつうの、市井の人の歌です。これに対して他の主役、ソプラノもテノールも、バリトンもそれぞれのアリアはカヴァティーナ・カバレッタ形式で書かれています。」
と言って、第3幕のマンリーコのアリアのさわりを歌う。
ビサンティ「そこまでやっちゃうの。次はソプラノも歌ってくれるんだね!(笑)」
ガザーレ「(観客席に向かって)誰か僕のかわりにソプラノを歌ってくれる人、ヴォランティアでお願いします!いませんか!(笑)」
ビサンティ「17世紀から19世紀の前半までに作曲されたベルカント・オペラは定型のスタイルが決まっていました。そこで、その様式を踏まえた上でなら歌手が自由に自分流の歌い方で表現していたのです。ヴェルディはそこを変えていきました。《マクベス》あたりからは、細かい表現方法が全部楽譜に書き込まれているのです。
ところで、オペラに悲劇的なメロドランマが多いのは、聴衆であるイタリア人がそれを好んだということがあります。悲劇が好き、セックスやお金が好き、つまり現世的な享楽が好き、というのは、これはもう我々イタリア人の国民性ですね。
そうしたテーマをオペラに仕立てあげるにあたっては、台本作家も大きな貢献をしていることを忘れてはなりません。当時は検閲というものがあり、そうした厳しい条件をかいくぐって作曲家を刺激しつづけたのが台本作家なのです。良い台本があったからこそ作曲家もすぐれた作品を残すことができたのです。
有名な《セヴィリアの理髪師》は、ロッシーニが作曲する前に、同じ台本でパイジェッロが先に作曲しているのですが、後から作曲したロッシーニの方が有名になり、パイジェッロの作品は忘れられてしまった、などという話もあります。
ヴェルディは台本を重視し、台本作者を注意深く選びましたし、あれこれ注文もつけました。ワーグナーは(自分で台本を書いたので)そんな心配をすることはなかったでしょうね。(笑)」
ガザーレ「《イル・トロヴァトーレ》の台本もよくできていますが、作者のカンマラーノは制作の途中で死んでしまいました。台本制作は弟子に引き継がれわけですが、この作品はヴェルディが自身で選んだ物語なので、彼が細かい注文をいろいろと出して完成させることができたのです。第2幕のルーナ伯爵のアリアと、第4幕のレオノーラのアリアは全くできていなかったのですが、ヴェルディが後を引き継いだバルダーレにいろいろと指示を出す手紙のやりとりが残っています。現代だったらWhatsAppでやりとりするでしょうからあとに何も残りません。当時は手紙しかなかったことに我々は感謝しなければなりませんね。(笑)
ところで、日本人とイタリア人って「相思相愛」ですよね。日本の人たちはオペラが好きだし、よく理解してくれているので、この地で歌うのはとても楽しいのです。なぜ、そうなのか?イタリアがオペラを発明したちょうどその同じ時期に日本では歌舞伎が始まりました。オペラと歌舞伎は、歌と音楽による劇という点で同じです。ドイツも、フランスも、オペラを始めたのはイタリアよりずっと後になってからです。でも日本は同じ時代から歌舞伎を楽しんできました。それが、お互いに深い所で理解し合える原因だと私は思っているんですよ。(笑)」
司会「とてもいいお話で締めくくっていただき、ありがとうございます。(笑)さて、予定のお時間になってまいりました。最後に、マエストロ、バーリの歌劇場、ペトルッツェッリ劇場についてひとことご紹介願えますか?」
ビサンティ「バーリ歌劇場は、イタリアに14ある大歌劇場(ente lirica)のひとつです。その中でも、建物の美しさという点ではペトルッツェッリ劇場は、ナポリのサン・カルロ劇場、カターニアのマッシモ・ベッリーニ劇場と並んで三指に入る素晴らしいもので、バラ色の色調が特徴です。1991年の火災で内部が焼失してしまい20年近くかけて復旧するまでは他の場所で公演を行ってきました。昔から大歌手が出演してきた格式の高い劇場ですが、近年新しい総裁が就任し、経営陣が刷新されてから、市の中心として機能し、プログラムも充実してきています。オーケツトラも若くて真面目で優秀なメンバーで構成されておりとてもレベルが高いものです。私自身はミラノ出身ですが、バーリという場所の海の美しさと食事がおいしいことに魅了されています。」
ガザーレ「これだけはつけ加えておきたいのですが、この歌劇場のレベルが上がったのはビサンティが常任指揮者になったことが大きく貢献しているのですよ。」(拍手)

この後、質問コーナーとなり、「ヴェルディの声はバリトンだったのではないか」といった話や、日伊の違いという話題の中で「イタリアはいろいろな民族に征服されてきた。今度は日本に征服されたいよ」という冗談まで飛び出すしまつ。その和気あいあいとした楽しい夕べとのとどめが、サービス精神旺盛なガザーレさんによる《オテッロ》の<悪のクレード>を歌ってくれる「アンコールのおまけつき」でのお開きとなりました。
以上(Simon)