2015年12月07日

講演会「ヴェルディをドイツ語で聴くと〜オペラと各国語の話」

2015年12月4日・東京文化会館中会議室

 今回は駐スイス、駐イタリア特命全権大使などを歴任され、現在、大阪経済大学で客員教授を務めておられる中村雄二氏をお招きし、「ヴェルディをドイツ語で聴くと〜オペラと各国語の話」をテーマに講演をしていただいた。
 つい30年ほど前まで、ドイツ語圏ではオペラはドイツ語の翻訳上演が主流であった。イタリア語が、語尾が母音で(子音があっても軽く「r」を巻く程度で)終わるため、アクートも伸びやかに歌えるのに対し、ドイツ語は、母音にはウムラウトが存在し、子音の量が多く、かつ語尾を強い子音で終える必要があるため、どうしても歌唱上制約がかかる。そのため同じ曲であっても聴く側に与える印象が大きく違う。それらを《リゴレット》の「女心の歌」、《イル・トロヴァトーレ》のレチタティーヴォなどをイタリア語とドイツ語の歌詞を対比させつつ、CD音源で聴かせ、出席者にその違いを実感させた。
 また、なぜ世界の潮流が「ドラマ重視」の翻訳上演から「音楽重視」の原語上演に推移していったのか。それについて時代背景や各種条件、翻訳上演の利点と問題点、その果たしてきた役割などについての実例を挙げつつ、わかりやすくご説明いただいた。
 親しみやすさと音楽性とのせめぎ合いが常に存在する、外国語圏におけるオペラの存在意義と今後の方向性を考えさせられる大変有意義な講演会であった。
(Kohno)



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2015年11月25日

旧古河庭園大谷美術館コンサート

11月23日(祝)に、北区にある都立旧古河庭園内の大谷美術館で、当協会主催のミニコンサートが開催されました。大谷美術館は、旧古河財閥三代目当主古河虎之助男爵の邸宅であった洋館で、鹿鳴館、ニコライ堂、三菱一号館など明治期に数々のランドマークを設計したお雇い外国人ジョサイア・コンドル晩年の設計になり、1917年(大正6年)に完成したそうです。
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当日は、まず参加者が3組に分かれて、学芸員による説明を受けながらの館内見学。面白いのは、二階の居間、客間などが和室になっていること。男爵一家は、食堂、寝室などについては洋風の生活をしながら、本当にくつろぐ時間は畳の上で過ごしていたらしい、というところがなんとも大正の日本人らしい感じがします。
コンサートの定員80名は、会員とその同伴者であっという間に埋まり、遅れて申し込まれた会員の方はお断りしなければならない盛況となりました。
演奏が行われたのは1階の大食堂。グランドピアノが置かれていて、普段もミニコンサートなどに利用されているほか、東京会館と提携して結婚披露宴の会場としても使われるそうです。もともと食事中の会話がよく聞こえるようにとの配慮から、木製の腰板が他の部屋よりも壁の高い位置まで延ばされていて、非常によい音響空間となっていました。
当日は東京二期会のご好意により、成田博之さん(Br)、石原妙子さん(S)、青柳素晴さん(T)の3人の二期会会員歌手とピアニストの大藤玲子さんにご出演いただきました。

プログラムは下記のとおり:
第1部 ヴェルディの至宝のアリア
成田博之   《ラ・トラヴィアータ》より〈プロヴァンスの海と陸〉
石原妙子   《アイーダ》より〈勝ちて帰れ〉
青柳素晴   《リゴレット》より〈 女心の歌〉
第2部 《イル・トロバトーレ》より
青柳素晴   〈見よ、恐ろしい炎〉(マンリーコのアリア)
石原妙子、成田博之 〈この涙をご覧ください〉 (レオノーラとルーナ伯爵の二重唱)
そしてアンコールとして
石原、青柳、成田 《ラ・トラヴィアータ》より〈乾杯の歌〉

第1部は、成田さんの軽妙な司会で、歌手の皆さんの本音トークも交えた紹介が行われ、第2部は当協会の武田が、2016年2月に行われる東京二期会公演《イル・トロヴァートーレ》(アンドレア・バッティストーニ指揮、石原さん、成田さんも出演)に対する期待も含めて、曲目解説を行いました。
3名の歌手は、皆さんヴェルディを歌うにふさわしい立派な声の響きとテクニックを持ち、参加者の皆さんには、大正ロマン薫る洋館サロンの中で、名曲の美しさを存分に堪能いただけたと思います。 (Simon)
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2015年09月16日

小畑恒夫氏講演会《マクベス》の魅力と楽しみ方(9月13日、東京文化会館中会議室)

 ヴェルディの初期(1847年初演)に属するオペラながら、革新的な作品と評価が高い《マクベス》。大きな理由は、ヴェルディが敬愛するシェイクスピアの作品を、初めてオペラ化したところにあるといえるでしょう。初演から18年を経て大幅に改訂されたことも、この作品をいっそう複雑で、魅力的なものにしています。
 去る9月13日、日本におけるヴェルディ研究の第一人者で、ヴェルディに関する著書も多い小畑恒夫氏をお迎えし、《マクベス》の魅力を語る講演会が開催されました。
 「ヴェルディ・オペラの初期でありながら突出した作品」だと《マクベス》を評する小畑氏は、「《マクベス》は改訂されて高く評価されるようになったと言われることがあるが、最初から傑作だった」「初演版から、新しいことをすべて取り込む意欲があった」という点を強調しておられたように思います。よく言われるように、《マクベス》は「美しい声で歌う」ことを否定したオペラですが、「新しさ」の象徴として、そのことももちろん触れられました。
 講演会では、物語、音楽の構成、音楽解説を一覧にまとめた表が配布されましたが、そこでも明確になったように、《マクベス》は「景(Scena)」が多いオペラです。それは「シェイクスピアの原作がそうだから」。「景」が多いということは、イコール「演劇的」。《マクベス》は、声の美よりドラマを優先させた演劇的な作品ですが、そうなることは、シェイクスピアを下敷きにした時点でわかっていたことでした。
 《マクベス》を作曲するにあたり、ヴェルディは自分でまず散文の台本を書き、それを台本作者のフランチェスコ・マリア・ピアーヴェに回して韻文にしてもらいました。ピアーヴェはヴェルディに忠実な台本作者として知られており、その意味で適役だったようです。このあたりに、「ヴェルディのオペラに対する考え方が現れている」と小畑氏は指摘します。ヴェルディは、第4作の《エルナーニ》くらいから、「原作に忠実であること、そうすれば間違いがない」ということを主張していました。オペラの材料にこだわったのは、その哲学のあらわれでしょう。
 《マクベス》はフィレンツェのペルゴラ劇場で初演されましたが、それはこの劇場が《魔弾の射手》など、幻想的なロマン派オペラを上演していたこともあったなど、初演に関する興味深い話も披露されました。
 音楽面については、第1幕のダンカン王の行進で聞こえる行進曲の「田舎っぽさ」が、妙な浮遊感を演出している、つまり意識して作られていること、第2幕フィナーレのバンコの幻影出現の場面での、定型を逸脱した劇的な音楽など、ヴェルディの斬新な工夫がいくつかあげられました。
 なかでも興味深かったのは、改訂によって大きく変えられ、マクベスのアリアから〈賛歌inno 〉 に書き換えられた全曲の幕切れについてです。小畑氏は、この結末の改訂によって、本作品が「小さな個人の物語にとどまらず、人間の運命、人類としての大きな物語の終わりを見せるものになった」と主張されていました。
 改訂によって「人間の運命を終わらせる壮大な物語」になったという《マクベス》。そこには、作曲家ヴェルディの進歩も反映されているのかもしれません。
 なお当日は、以下の2点の映像が使用されました。
リセウ大劇場ライブ、カルロス・アルヴァレス(マクベス)、マリア・グレギーナ(マクベス夫人)、ブルーノ・カンパネッラ指揮、フィリダ・ロイド演出
チューリヒ歌劇場ライブ、トーマス・ハンプソン(マクベス)、パオレッタ・マッローク(マクベス夫人)、フランツ・ウェルザー=メスト指揮、デヴィッド・パウントニー演出


(Amneris)


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2015年08月14日

ヴェルディのテノール

2015年8月11日のアレーナ・ディ・ヴェローナ《アイーダ》で、グレゴリー・クンデが歌うラダメスを聴きました。(指揮:アンドレア・バッティストーニ)
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テノール好きの方々には失礼かもしれませんが、私は常々、ヴェルディはテノールが嫌いだったのではないか、と思ってきました。
なぜなら、オテッロとリッカルド(グスターヴォ)を除くと、ヴェルディのオペラに出てくるテノール役はどれもが思慮が浅く能天気な直情径行型に描かれているからです。色好みのマントヴァ公爵は言うに及ばずマンリーコは恋人が毒をあおってまで自分を助けようとしているのに気がつかずにレオノーラを詰りますし、アルフレードは満座の中でヴィオレッタを辱め、ガブリエーレ・アドルノもアメーリアがシモンの囲い者になったのではないかと勘違いして逆上します。
ラダメスも例外ではありません。第3幕、夜のナイルの岸部で待つアイーダに密会するために彼が現れる場面で使われている音楽の能天気なこと。特にドミンゴが歌うそれはデートの場所にやってきた男が「アイーダちゃん、待ったあ?ごめんね〜。会いたかったよ〜。」という感じで「やに下がった」感にあふれています。いかにもすぐその後で女の色香に迷って軍機を漏らしてしまうダメ軍人らしい、といえばそのとおりで、さすがドミンゴ、ヴェルディ先生のテノールに対する悪意をそのまま感じ取って音楽にしている、と感心した次第です。(そして彼はテノールを辞め、バリトンになりました。)
ところが当夜のクンデのラダメスはどこか違いました。
まずは、伏線があります。第一幕に歌われるラダメスの有名なアリア《清きアイーダ》。
このアリアの時点ではまだどのテノールが歌っても英雄的でかっこいい武人の姿です。この役を歌う歌手はリリコ・スピントといわれる力強い声を持ったテノールがふさわしく、輝かしい声で逞しく朗々と歌い上げる場面です。カルーソーの録音などを聴くと、過剰にポルタメントをいれて甘く歌い崩す思い入れたっぷりの歌い方が主流であった時期もありますが、近年この役を得意にしたカルロ・ベルゴンツィやドミンゴなどは比較的スタイリッシュに、すなわち楽譜通りに歌う傾向にはなってきていました。然しながら、アリアの最後の部分「un trono vicino al sol」の「sol」を最高音で引っ張るところ、楽譜ではディミヌエンド(譜面表記はmorendo)してピアニッシモで終わるように指示されているのですが、大抵の歌手はフォルテのまま、派手に引き延ばして終わります。テノールであっても高いB音を絞るのは非常に難しく、ましてやスピント系の重い声の歌手には至難の技というべきことなのでしょう。(好調な時のフランコ・コレッリは声を絞る終わり方をしていますが、前半はポルタメントしまくりですので、楽譜通りとはいえません。)この最後の音をクンデは輝かしいフォルテで長く伸ばしたあと徐々に声を絞り、最後はファルセットに近いソット・ヴォーチェで締めくくってみせたのです。
一方で、アリアの入りの部分、「celeste Aida」の「Ai-da」などの上昇部分を、ベルゴンツィなどは「歌い崩し」を嫌うあまりに素気なく「楽譜通りに」上げてしまうのですが、クンデは、ベルカント伝統のアッポジャトゥーラを嫌味にならない程度に入れて滑らかに上昇させます。楽譜に書いていないといえばいない音なのですが、ベルカントでは入れることがある意味お約束になっている歌い方です。この時代のヴェルディがどこまでこれを許容したのかはよくわかりませんが、ロッシーニ歌いから出発したクンデとしてはこれが自然なのでしょう。そのほか、高音の張りは十分に輝かしく力強いスピントの声なのですが、締めくくりだけでなく途中の高音部でも広い会場に臆することなくソット・ヴォーチェに絞ってみせるなど、リリコ系の歌い回しの巧さもみせてくれました。
一言でいうと、後期ヴェルディを歌うのにふさわしい逞しい声でありながら、力任せに叫ぶのではなく、繊細なベルカントのテクニックを駆使しながら歌う歌手が出現した、ということでしょうか。
ロッシーニ歌いからヴェルディも歌うようになったテノールといえば、2014年のローマ歌劇場来日公演《シモン・ボッカネグラ》でガブリエーレ・アドルノを歌ったフランチェスコ・メーリもその口です。その公演の感想文に私はこう書きました:「スピント系テノールによって歌われることも多いこの役を、弱声を巧みに織り交ぜるリリカルな歌唱スタイルで実に清潔に優美に歌ってみせ、新しいアドルノ像をみせてくれました。従来の直情径行で単純な青年というイメージを払しょくし、男らしく高潔で元首(ドージェ)の後継者に相応しい人物としてのアドルノを聴いたのは今回が初めてです。」
この夜のクンデにも似たような印象を受けました。メーリよりはさらに逞しい声ですが、それを押し出したりせず、ベルカント唱法を駆使して後期ヴェルディを歌っている点は似ています。そして、その結果なのかどうか、クンデのラダメスも「直情径行で馬鹿なテノール」ではなく、「男らしく高潔な」若い将軍に見えるのです。これはいったいなんなのか?私には、まだ十分な答えが出せていません。しかしながら、ヴェルディの時代の歌手たちは、まず確実にベルカント(オペラ様式のベルカントではなく、唱法としてのベルカント)の技法を身に着けていたことは確かでしょう。したがって、ヴェルディは別にテノールに悪意を持っていたわけではなく、当時の一流のテノールが歌えば英雄的で高潔な主人公が描けるようにちゃんと音楽は書かれていたのかもしれません。
一方で、ヴェルディの後にヴェリズモの時代があり、現代の歌手たちは、ベルカント唱法を身に着けなくても、後期ヴェルディとヴェリズモ以降だけをリパートリーにしても食っていける状況ではあります。このあたりにヒントがありそうです。
なお、2013年のヴェネチア・フェニーチェ座来日公演《オテッロ》でのクンデには、それほど感銘を受けませんでした。オテッロに関していえば、圧倒的に、デル・モナコやドミンゴの方が感動的です。これは、オテッロはもともと「高潔だが直情径行型の英雄」が陥る悲劇であることからきているのかもしれません。
                                       以上 (Simon)

※ この記事は筆者個人の見解であり、日本ヴェルディ協会の公式見解ではありません。
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2015年07月27日

ヴェルディお気に入りの「ラ」

コンサートマスターが立ち上がるとオーボエが「A」の音を出して各楽器奏者が一斉にチューニングに入る。オーケストラの演奏会が始まる前にお馴染の光景です。
このA(イタリアでは「ラ」)音のピッチの国際標準は440ヘルツとされていますが、今や日本や米国のオーケストラでは442Hzが主流、ベルリン・フィルやウィーン・フィルは448Hzともいわれています。輝かしい派手な音を好んだカラヤン以来、ピッチはどんどん高くなる方向であるとか。
これについて先日、イタリアの「CITYMEG」というウェブ・サイトに興味深い記事が掲載されました。(http://citymeg.com/blog/2015/06/29/la-piaceva-verdi/
記事のタイトルは「Il “LA” che piaceva a Verdi(ヴェルディお気に入りの「ラ」)」。これによると、ジュゼッペ・ヴェルディは、「自然なラ音(La naturale)」の使用を法制化するためにイタリア政府と戦った、とのこと。以下にその記事の概要を紹介します:
>>以下、要約して引用>>「自然なラ音」とは、18世紀までの楽派が物理学的にも人体にとって最も自然に感じられるとして採用していた周波数432ヘルツのラ(A)音のこと。この周波数は、ケプラー、レオナルド・ダ・ヴィンチ以来、多数の学者によって数学的に研究された結果、大脳半球の中でも最も均衡の得られる値であり、ストラディヴァリも自作のヴァイオリンの調律を432Hzで行っていた。
このラ音を432Hzに調律した音楽は、人体の生化学的働きの周波数と「同調」して、治癒力を高める結果をもたらすとともに、いわゆる宇宙の周波数として精神物理学的にも様々な恩恵をもたらす。
この432Hzを調律ピッチとすることを推奨した最初の人物は音響物理学の父といわれるフランスの物理学者ジョゼフ・ソーヴール(1653〜1716)。
ところが、ナポレオン戦争終結後に招集されたウィーン会議(1815年)で、ロシア皇帝アレクサンドルT世が「もっと輝かしい音」を所望すると、全欧州の王侯たちがこれに賛同。ちょうどその頃、古典派に対抗して台頭しつつあったロマン派のフランツ・リストやリヒャルト・ワグナーがもっと高いピッチ、すなわち現行標準の440Hzのラ音を支持、瞬く間に普及することになった。
これに対し、ヴェルディは他のイタリアの音楽家たちを糾合して1881年に議会に請願を提出。その結果、1884年にイタリア政府は調律用音叉の周波数を432Hzに「正常化」することを命じた政令を発した。しかしながらこの命令は長続きせず、実際には全ての音楽学校、楽器製造者は440Hzのラ音を採用するようになってしまった。
<<以上、要約引用おわり<<
この記事には筆者の署名がなく、学問的に正しい言説なのかどうかは定かでありません。
そもそも、現代でも、ピリオド楽器を用いてバロック音楽などを演奏する場合のピッチは440Hzより「半音」低い415Hzが標準などといわれています。18世紀までは432Hzが主流だった、といわれてもあまりピンときません。しかし、アントニオ・ストラディヴァリ(1644〜1737)はソーヴールと同時代人ですから432Hzを基準に楽器作りをしていた、というのはあり得る話ともいえそうです。
ストラディヴァリの時代のクレモーナの銘器を現代のコンサート・ピッチで酷使していると楽器を傷めてしまうという議論は今までにも耳にしたことがあります。
声帯が楽器である歌手にとっても、徒に高いピッチは好ましくありません。
興味を覚えたので、インターネットの中に現れている記事をいろいろと渉猟してみました。
その結果、いくつかのことがわかってきました。
1980年代に、リンドン・ラルーシュという米国の政治活動家に関係する「シラー研究所(Schiller Institute)」というシンク・タンクおよびこれを支持する音楽団体などが432Hzを「ヴェルディ・ピッチ」あるいは「ヴェルディ・チューニング」と呼んで標準ピッチにする運動を始めたようです。ラルーシュ氏は、米国大統領選挙常連の「泡沫候補」として知られた米国言論界の異端児。
Aを432Hzにしたときに対応するCは256Hzとなり、それをオクターブで並べると、32、64、128、256、512、1024ときれいな2の整数倍になる。人間の肉体の振動も2の倍数で支配されているので、この「自然な」倍数列を持つ周波数を使うことが人間の生理に合っており「科学的」でもあるのだ、というのがこの団体の主張であるようです。ヴェルディが432Hzを推奨したということ、432Hzが科学的に理に適ったピッチであること、ということを主張している記事はネット上で沢山見つかるのですが、その殆どがなんらかの形でシラー研究所と関係のあるもののようでした。
1881年というと、ヴェルディがアッリーゴ・ボーイトの協力を得て《シモン・ボッカネグラ》の改訂版を世に出した年で、伝記作者たちからは晩年の傑作《オテッロ》(1887年初演)を完成させるための長い助走期間の開始時期とされている時期です。この頃の伝記の記述は、ボーイト、リコルディ、ファッチョ、ストレッポーニなど周囲の人間たちが、気難しい老巨匠をなんとかその気にさせようと苦心する話であふれています。しかしながら、ヴェルディが432Hzを法制化する運動の先頭に立ったという記述には、寡聞にして私は今までに出会ったことがありませんでした。
一方で、歌手の生理に精通しているとともに、ワーグナーに代表される北方の音楽潮流に反発心を持っていたヴェルディが標準ピッチを下げようとした、というのはあり得る話のようにも思われます。
ライアー(イタリア語ではリーラ)と呼ばれる古代ギリシア以来の古風な竪琴は432Hzで調弦するのが標準であるという話もあります。
「治癒力を高める」というような話は「科学的」というよりは「神秘的」であるような気もしますが、人間の生理にあったピッチというのがあるのだとしたら、その調律による音楽を聴いてみたいという気もします。

                                       (Simon)
posted by NPO日本ヴェルディ協会 at 14:09| Comment(0) | オペラ考