
テノール好きの方々には失礼かもしれませんが、私は常々、ヴェルディはテノールが嫌いだったのではないか、と思ってきました。
なぜなら、オテッロとリッカルド(グスターヴォ)を除くと、ヴェルディのオペラに出てくるテノール役はどれもが思慮が浅く能天気な直情径行型に描かれているからです。色好みのマントヴァ公爵は言うに及ばずマンリーコは恋人が毒をあおってまで自分を助けようとしているのに気がつかずにレオノーラを詰りますし、アルフレードは満座の中でヴィオレッタを辱め、ガブリエーレ・アドルノもアメーリアがシモンの囲い者になったのではないかと勘違いして逆上します。
ラダメスも例外ではありません。第3幕、夜のナイルの岸部で待つアイーダに密会するために彼が現れる場面で使われている音楽の能天気なこと。特にドミンゴが歌うそれはデートの場所にやってきた男が「アイーダちゃん、待ったあ?ごめんね〜。会いたかったよ〜。」という感じで「やに下がった」感にあふれています。いかにもすぐその後で女の色香に迷って軍機を漏らしてしまうダメ軍人らしい、といえばそのとおりで、さすがドミンゴ、ヴェルディ先生のテノールに対する悪意をそのまま感じ取って音楽にしている、と感心した次第です。(そして彼はテノールを辞め、バリトンになりました。)
ところが当夜のクンデのラダメスはどこか違いました。
まずは、伏線があります。第一幕に歌われるラダメスの有名なアリア《清きアイーダ》。
このアリアの時点ではまだどのテノールが歌っても英雄的でかっこいい武人の姿です。この役を歌う歌手はリリコ・スピントといわれる力強い声を持ったテノールがふさわしく、輝かしい声で逞しく朗々と歌い上げる場面です。カルーソーの録音などを聴くと、過剰にポルタメントをいれて甘く歌い崩す思い入れたっぷりの歌い方が主流であった時期もありますが、近年この役を得意にしたカルロ・ベルゴンツィやドミンゴなどは比較的スタイリッシュに、すなわち楽譜通りに歌う傾向にはなってきていました。然しながら、アリアの最後の部分「un trono vicino al sol」の「sol」を最高音で引っ張るところ、楽譜ではディミヌエンド(譜面表記はmorendo)してピアニッシモで終わるように指示されているのですが、大抵の歌手はフォルテのまま、派手に引き延ばして終わります。テノールであっても高いB音を絞るのは非常に難しく、ましてやスピント系の重い声の歌手には至難の技というべきことなのでしょう。(好調な時のフランコ・コレッリは声を絞る終わり方をしていますが、前半はポルタメントしまくりですので、楽譜通りとはいえません。)この最後の音をクンデは輝かしいフォルテで長く伸ばしたあと徐々に声を絞り、最後はファルセットに近いソット・ヴォーチェで締めくくってみせたのです。
一方で、アリアの入りの部分、「celeste Aida」の「Ai-da」などの上昇部分を、ベルゴンツィなどは「歌い崩し」を嫌うあまりに素気なく「楽譜通りに」上げてしまうのですが、クンデは、ベルカント伝統のアッポジャトゥーラを嫌味にならない程度に入れて滑らかに上昇させます。楽譜に書いていないといえばいない音なのですが、ベルカントでは入れることがある意味お約束になっている歌い方です。この時代のヴェルディがどこまでこれを許容したのかはよくわかりませんが、ロッシーニ歌いから出発したクンデとしてはこれが自然なのでしょう。そのほか、高音の張りは十分に輝かしく力強いスピントの声なのですが、締めくくりだけでなく途中の高音部でも広い会場に臆することなくソット・ヴォーチェに絞ってみせるなど、リリコ系の歌い回しの巧さもみせてくれました。
一言でいうと、後期ヴェルディを歌うのにふさわしい逞しい声でありながら、力任せに叫ぶのではなく、繊細なベルカントのテクニックを駆使しながら歌う歌手が出現した、ということでしょうか。
ロッシーニ歌いからヴェルディも歌うようになったテノールといえば、2014年のローマ歌劇場来日公演《シモン・ボッカネグラ》でガブリエーレ・アドルノを歌ったフランチェスコ・メーリもその口です。その公演の感想文に私はこう書きました:「スピント系テノールによって歌われることも多いこの役を、弱声を巧みに織り交ぜるリリカルな歌唱スタイルで実に清潔に優美に歌ってみせ、新しいアドルノ像をみせてくれました。従来の直情径行で単純な青年というイメージを払しょくし、男らしく高潔で元首(ドージェ)の後継者に相応しい人物としてのアドルノを聴いたのは今回が初めてです。」
この夜のクンデにも似たような印象を受けました。メーリよりはさらに逞しい声ですが、それを押し出したりせず、ベルカント唱法を駆使して後期ヴェルディを歌っている点は似ています。そして、その結果なのかどうか、クンデのラダメスも「直情径行で馬鹿なテノール」ではなく、「男らしく高潔な」若い将軍に見えるのです。これはいったいなんなのか?私には、まだ十分な答えが出せていません。しかしながら、ヴェルディの時代の歌手たちは、まず確実にベルカント(オペラ様式のベルカントではなく、唱法としてのベルカント)の技法を身に着けていたことは確かでしょう。したがって、ヴェルディは別にテノールに悪意を持っていたわけではなく、当時の一流のテノールが歌えば英雄的で高潔な主人公が描けるようにちゃんと音楽は書かれていたのかもしれません。
一方で、ヴェルディの後にヴェリズモの時代があり、現代の歌手たちは、ベルカント唱法を身に着けなくても、後期ヴェルディとヴェリズモ以降だけをリパートリーにしても食っていける状況ではあります。このあたりにヒントがありそうです。
なお、2013年のヴェネチア・フェニーチェ座来日公演《オテッロ》でのクンデには、それほど感銘を受けませんでした。オテッロに関していえば、圧倒的に、デル・モナコやドミンゴの方が感動的です。これは、オテッロはもともと「高潔だが直情径行型の英雄」が陥る悲劇であることからきているのかもしれません。
以上 (Simon)
※ この記事は筆者個人の見解であり、日本ヴェルディ協会の公式見解ではありません。