2015年08月14日

ヴェルディのテノール

2015年8月11日のアレーナ・ディ・ヴェローナ《アイーダ》で、グレゴリー・クンデが歌うラダメスを聴きました。(指揮:アンドレア・バッティストーニ)
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テノール好きの方々には失礼かもしれませんが、私は常々、ヴェルディはテノールが嫌いだったのではないか、と思ってきました。
なぜなら、オテッロとリッカルド(グスターヴォ)を除くと、ヴェルディのオペラに出てくるテノール役はどれもが思慮が浅く能天気な直情径行型に描かれているからです。色好みのマントヴァ公爵は言うに及ばずマンリーコは恋人が毒をあおってまで自分を助けようとしているのに気がつかずにレオノーラを詰りますし、アルフレードは満座の中でヴィオレッタを辱め、ガブリエーレ・アドルノもアメーリアがシモンの囲い者になったのではないかと勘違いして逆上します。
ラダメスも例外ではありません。第3幕、夜のナイルの岸部で待つアイーダに密会するために彼が現れる場面で使われている音楽の能天気なこと。特にドミンゴが歌うそれはデートの場所にやってきた男が「アイーダちゃん、待ったあ?ごめんね〜。会いたかったよ〜。」という感じで「やに下がった」感にあふれています。いかにもすぐその後で女の色香に迷って軍機を漏らしてしまうダメ軍人らしい、といえばそのとおりで、さすがドミンゴ、ヴェルディ先生のテノールに対する悪意をそのまま感じ取って音楽にしている、と感心した次第です。(そして彼はテノールを辞め、バリトンになりました。)
ところが当夜のクンデのラダメスはどこか違いました。
まずは、伏線があります。第一幕に歌われるラダメスの有名なアリア《清きアイーダ》。
このアリアの時点ではまだどのテノールが歌っても英雄的でかっこいい武人の姿です。この役を歌う歌手はリリコ・スピントといわれる力強い声を持ったテノールがふさわしく、輝かしい声で逞しく朗々と歌い上げる場面です。カルーソーの録音などを聴くと、過剰にポルタメントをいれて甘く歌い崩す思い入れたっぷりの歌い方が主流であった時期もありますが、近年この役を得意にしたカルロ・ベルゴンツィやドミンゴなどは比較的スタイリッシュに、すなわち楽譜通りに歌う傾向にはなってきていました。然しながら、アリアの最後の部分「un trono vicino al sol」の「sol」を最高音で引っ張るところ、楽譜ではディミヌエンド(譜面表記はmorendo)してピアニッシモで終わるように指示されているのですが、大抵の歌手はフォルテのまま、派手に引き延ばして終わります。テノールであっても高いB音を絞るのは非常に難しく、ましてやスピント系の重い声の歌手には至難の技というべきことなのでしょう。(好調な時のフランコ・コレッリは声を絞る終わり方をしていますが、前半はポルタメントしまくりですので、楽譜通りとはいえません。)この最後の音をクンデは輝かしいフォルテで長く伸ばしたあと徐々に声を絞り、最後はファルセットに近いソット・ヴォーチェで締めくくってみせたのです。
一方で、アリアの入りの部分、「celeste Aida」の「Ai-da」などの上昇部分を、ベルゴンツィなどは「歌い崩し」を嫌うあまりに素気なく「楽譜通りに」上げてしまうのですが、クンデは、ベルカント伝統のアッポジャトゥーラを嫌味にならない程度に入れて滑らかに上昇させます。楽譜に書いていないといえばいない音なのですが、ベルカントでは入れることがある意味お約束になっている歌い方です。この時代のヴェルディがどこまでこれを許容したのかはよくわかりませんが、ロッシーニ歌いから出発したクンデとしてはこれが自然なのでしょう。そのほか、高音の張りは十分に輝かしく力強いスピントの声なのですが、締めくくりだけでなく途中の高音部でも広い会場に臆することなくソット・ヴォーチェに絞ってみせるなど、リリコ系の歌い回しの巧さもみせてくれました。
一言でいうと、後期ヴェルディを歌うのにふさわしい逞しい声でありながら、力任せに叫ぶのではなく、繊細なベルカントのテクニックを駆使しながら歌う歌手が出現した、ということでしょうか。
ロッシーニ歌いからヴェルディも歌うようになったテノールといえば、2014年のローマ歌劇場来日公演《シモン・ボッカネグラ》でガブリエーレ・アドルノを歌ったフランチェスコ・メーリもその口です。その公演の感想文に私はこう書きました:「スピント系テノールによって歌われることも多いこの役を、弱声を巧みに織り交ぜるリリカルな歌唱スタイルで実に清潔に優美に歌ってみせ、新しいアドルノ像をみせてくれました。従来の直情径行で単純な青年というイメージを払しょくし、男らしく高潔で元首(ドージェ)の後継者に相応しい人物としてのアドルノを聴いたのは今回が初めてです。」
この夜のクンデにも似たような印象を受けました。メーリよりはさらに逞しい声ですが、それを押し出したりせず、ベルカント唱法を駆使して後期ヴェルディを歌っている点は似ています。そして、その結果なのかどうか、クンデのラダメスも「直情径行で馬鹿なテノール」ではなく、「男らしく高潔な」若い将軍に見えるのです。これはいったいなんなのか?私には、まだ十分な答えが出せていません。しかしながら、ヴェルディの時代の歌手たちは、まず確実にベルカント(オペラ様式のベルカントではなく、唱法としてのベルカント)の技法を身に着けていたことは確かでしょう。したがって、ヴェルディは別にテノールに悪意を持っていたわけではなく、当時の一流のテノールが歌えば英雄的で高潔な主人公が描けるようにちゃんと音楽は書かれていたのかもしれません。
一方で、ヴェルディの後にヴェリズモの時代があり、現代の歌手たちは、ベルカント唱法を身に着けなくても、後期ヴェルディとヴェリズモ以降だけをリパートリーにしても食っていける状況ではあります。このあたりにヒントがありそうです。
なお、2013年のヴェネチア・フェニーチェ座来日公演《オテッロ》でのクンデには、それほど感銘を受けませんでした。オテッロに関していえば、圧倒的に、デル・モナコやドミンゴの方が感動的です。これは、オテッロはもともと「高潔だが直情径行型の英雄」が陥る悲劇であることからきているのかもしれません。
                                       以上 (Simon)

※ この記事は筆者個人の見解であり、日本ヴェルディ協会の公式見解ではありません。
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2015年07月27日

ヴェルディお気に入りの「ラ」

コンサートマスターが立ち上がるとオーボエが「A」の音を出して各楽器奏者が一斉にチューニングに入る。オーケストラの演奏会が始まる前にお馴染の光景です。
このA(イタリアでは「ラ」)音のピッチの国際標準は440ヘルツとされていますが、今や日本や米国のオーケストラでは442Hzが主流、ベルリン・フィルやウィーン・フィルは448Hzともいわれています。輝かしい派手な音を好んだカラヤン以来、ピッチはどんどん高くなる方向であるとか。
これについて先日、イタリアの「CITYMEG」というウェブ・サイトに興味深い記事が掲載されました。(http://citymeg.com/blog/2015/06/29/la-piaceva-verdi/
記事のタイトルは「Il “LA” che piaceva a Verdi(ヴェルディお気に入りの「ラ」)」。これによると、ジュゼッペ・ヴェルディは、「自然なラ音(La naturale)」の使用を法制化するためにイタリア政府と戦った、とのこと。以下にその記事の概要を紹介します:
>>以下、要約して引用>>「自然なラ音」とは、18世紀までの楽派が物理学的にも人体にとって最も自然に感じられるとして採用していた周波数432ヘルツのラ(A)音のこと。この周波数は、ケプラー、レオナルド・ダ・ヴィンチ以来、多数の学者によって数学的に研究された結果、大脳半球の中でも最も均衡の得られる値であり、ストラディヴァリも自作のヴァイオリンの調律を432Hzで行っていた。
このラ音を432Hzに調律した音楽は、人体の生化学的働きの周波数と「同調」して、治癒力を高める結果をもたらすとともに、いわゆる宇宙の周波数として精神物理学的にも様々な恩恵をもたらす。
この432Hzを調律ピッチとすることを推奨した最初の人物は音響物理学の父といわれるフランスの物理学者ジョゼフ・ソーヴール(1653〜1716)。
ところが、ナポレオン戦争終結後に招集されたウィーン会議(1815年)で、ロシア皇帝アレクサンドルT世が「もっと輝かしい音」を所望すると、全欧州の王侯たちがこれに賛同。ちょうどその頃、古典派に対抗して台頭しつつあったロマン派のフランツ・リストやリヒャルト・ワグナーがもっと高いピッチ、すなわち現行標準の440Hzのラ音を支持、瞬く間に普及することになった。
これに対し、ヴェルディは他のイタリアの音楽家たちを糾合して1881年に議会に請願を提出。その結果、1884年にイタリア政府は調律用音叉の周波数を432Hzに「正常化」することを命じた政令を発した。しかしながらこの命令は長続きせず、実際には全ての音楽学校、楽器製造者は440Hzのラ音を採用するようになってしまった。
<<以上、要約引用おわり<<
この記事には筆者の署名がなく、学問的に正しい言説なのかどうかは定かでありません。
そもそも、現代でも、ピリオド楽器を用いてバロック音楽などを演奏する場合のピッチは440Hzより「半音」低い415Hzが標準などといわれています。18世紀までは432Hzが主流だった、といわれてもあまりピンときません。しかし、アントニオ・ストラディヴァリ(1644〜1737)はソーヴールと同時代人ですから432Hzを基準に楽器作りをしていた、というのはあり得る話ともいえそうです。
ストラディヴァリの時代のクレモーナの銘器を現代のコンサート・ピッチで酷使していると楽器を傷めてしまうという議論は今までにも耳にしたことがあります。
声帯が楽器である歌手にとっても、徒に高いピッチは好ましくありません。
興味を覚えたので、インターネットの中に現れている記事をいろいろと渉猟してみました。
その結果、いくつかのことがわかってきました。
1980年代に、リンドン・ラルーシュという米国の政治活動家に関係する「シラー研究所(Schiller Institute)」というシンク・タンクおよびこれを支持する音楽団体などが432Hzを「ヴェルディ・ピッチ」あるいは「ヴェルディ・チューニング」と呼んで標準ピッチにする運動を始めたようです。ラルーシュ氏は、米国大統領選挙常連の「泡沫候補」として知られた米国言論界の異端児。
Aを432Hzにしたときに対応するCは256Hzとなり、それをオクターブで並べると、32、64、128、256、512、1024ときれいな2の整数倍になる。人間の肉体の振動も2の倍数で支配されているので、この「自然な」倍数列を持つ周波数を使うことが人間の生理に合っており「科学的」でもあるのだ、というのがこの団体の主張であるようです。ヴェルディが432Hzを推奨したということ、432Hzが科学的に理に適ったピッチであること、ということを主張している記事はネット上で沢山見つかるのですが、その殆どがなんらかの形でシラー研究所と関係のあるもののようでした。
1881年というと、ヴェルディがアッリーゴ・ボーイトの協力を得て《シモン・ボッカネグラ》の改訂版を世に出した年で、伝記作者たちからは晩年の傑作《オテッロ》(1887年初演)を完成させるための長い助走期間の開始時期とされている時期です。この頃の伝記の記述は、ボーイト、リコルディ、ファッチョ、ストレッポーニなど周囲の人間たちが、気難しい老巨匠をなんとかその気にさせようと苦心する話であふれています。しかしながら、ヴェルディが432Hzを法制化する運動の先頭に立ったという記述には、寡聞にして私は今までに出会ったことがありませんでした。
一方で、歌手の生理に精通しているとともに、ワーグナーに代表される北方の音楽潮流に反発心を持っていたヴェルディが標準ピッチを下げようとした、というのはあり得る話のようにも思われます。
ライアー(イタリア語ではリーラ)と呼ばれる古代ギリシア以来の古風な竪琴は432Hzで調弦するのが標準であるという話もあります。
「治癒力を高める」というような話は「科学的」というよりは「神秘的」であるような気もしますが、人間の生理にあったピッチというのがあるのだとしたら、その調律による音楽を聴いてみたいという気もします。

                                       (Simon)
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2015年06月25日

『ヴェルディの全オペラ解説』完結記念懇話会(6月24日)

image.jpg標記の会が、著者の崎保男先生をお招きして東京文化会館大会議室で行われました。以下に、当日のお話の概要を記します。(文責は当方にあり、聴き間違いなどあるかもしれませんがご容赦ください。以下、「私」とは崎先生のことです。)

 ヴェルディの没後50年にあたる1951年は私が大学に入って音楽史の勉強を始めたころで、LPレコードが出始めた時期でもありました。当時日本ではまだ製造されておらず、全てが輸入盤でした。私が最初に購入したオペラ全曲盤はタリアヴィーニが主演した《夢遊病の女》(1953年録音)で、そのCETRAの解説書の後ろにヴェルディ初期作品のリストが出ていたことに強い印象を受けました。戦前からの日本の常識では、《リゴレット》以前のヴェルディ初期作品は先行するベルカント・オペラ諸作品の単なる模倣であって顧みるに値したいとされていたからです。
 CETRA(フォニット・チェトラ・レコード:筆者注)は、イタリア国営放送(RAI)の子会社で、当時、《オベルト》《一日だけの王様》《イ・ロンバルディ》などのヴェルディ初期全作品の全曲盤制作を目指していました。全部は完成しなかったのですが、10曲くらいはリリースされたはずです。
 当時はイタリアでさえそんな状況で、《リゴレット》以前のヴェルディ作品は殆ど上演されていなかったのです。たとえばナマ演奏の《オベルト》は1977年ボローニャでの復活上演が戦後初であったとのこと。70年代というのはちょうどロッシーニ・ルネサンスが始まる時期とも一致します。
その頃、ガルデッリ指揮によるフィリップスのヴェルディ初期シリーズも始まりました。デッカの名プロデューサー、ジョン・カルショーのもとで修業したエリック・スミスがプロデュースしたもので、ベルコンツィ、カップッチッリ、カバリエ、リッチャレッリなど歌手の起用も超一流でしたが、特に画期的だったのは全曲「ノー・カット」演奏であったことです。
イタリア・オペラの世界では「伝統的なカット」が常識とされてきました。例えば、ムーティの著書によると、彼がフィレンツェの五月音楽祭で《イ・マスナディエリ(群盗)》の指揮をしようとしたとき、劇場のライブラリにあった総譜は「伝統的カット」部分のページがホッチキス止めされていたとのこと。あの大指揮者トゥリオ・セラフィンでさえこの「伝統」には忠実でした。また、1988年のマチェラータ音楽祭で《ラ・トラヴィアータ》が演奏された時のこと。インテンダントのジャンカルロ・デル・モナコはノー・カット演奏を求めたのですが、ジェルモン役のカップッチッリは、第2幕第1場幕切れのアリア<プロヴァンスの海と陸>の後半部分のカバレッタについて、当時はカットされることが常識だったため「歌ったことがない」といって拒絶し帰ってしまった、ということもあったのです。
ノーカット版録音の試みは、実は1950年代にデッカのジョン・カルショーのもとで始まっており、デル・モナコ、テバルディが主演したモノラル盤《イル・トロヴァトーレ》が最初でした。
とにかく、この『ヴェルディの全オペラ解説』は、序文でも申し上げたように、主に1970年代、80年代のレコー ド全曲盤ライナーノーツに書いた解説をもとにして作ったこのですが、このフィリップスのヴェルディ初期シリーズの仕事が回ってきた、ということが大きかったわけです。
それでも私が、今まで一度も解説を書いたことがないヴェルディのオペラが5つありました。それらは、《ジョヴァンナ・ダルコ》《ルイザ・ミッレル》《イェルサレム》《アロルド》そして、これはたまたま機会がなかったということになるのですが《オテッロ》。
50年前にはヴェルディの作曲当時のことについては未知の部分がたくさんありました。その後、リコルディ社とシカゴ大学の協力により、クリティカル・エディションが順次発行されるようになり、たとえば、《マクベス》の改訂前のオリジナルの姿はどんな音楽だったのか、が辿れるようになりました。
それでも、まだクリティカル・エディションが出ているのは28曲のうちの半分以下です。
なかでも《イェルサレム》は、そもそも楽譜が出版されていないので苦労しました。日本ではもちろん入手できません。調べてみたらパリの国立文書館に自筆譜が保存されているとのこと。出かけて行って閲覧するのも大変なので、一部でもコピーを入手できないか、と働きかけたところ、幸い全曲をコピーして送ってくれたので、やっと解説を書くめどが立ちました。
 この《イェルサレム》は《イ・ロンバルディ》の改作で、ヴェルディが初めてフランス語のオペラに取り組んだものですが、劇そのものは《イ・ロンバルディ》よりむしろドラマティックになっています。ところが音楽の方は無理にフランス語にあてはめているようなところがある。ベテラン歌手のアルベルト・クピドなどは「ヴェルディの作品の中で一番つまらない」と言っています。イタリア・オペラ的な様式感や語法とは合っていないので、イタリア人歌手からみるとそういう評価になるのかもしれないのでしょう。
 とにかく、ヴェルディのオペラの魅力は、言葉ではなかなか語りつくせません。全てのヴェルディ・オペラの上演をナマで観ておきたいのですが、いまだに《アルヅィーラ》と《アロルド》だけは観ていません。これらはそもそも上演の機会がなかなかないからです。

 話題を変えて、最近のヴェルディ演奏について。
 若手の指揮者には素晴らしい人材が出てきていると思います。なかでも「断然おもしろい」と思うのは、アンドレア・バッティストーニ。その演奏を聴いたのは、二度の来日公演《ナブッコ》《リゴレット》、ヴェローナ《ラ・トラヴィアータ》、トリノ《マクベス》など全てヴェルディのオペラでしたが、指揮する姿からしてヴェルディの面白さを体現している。こんな風に感じられるのは、カルロス・クライバー、リッカルド・ムーティ以来のこと。オケが未成熟なトリノでは、まだ情熱一辺倒では空回りする面もありますが、さらなる成長が期待できると思います。
 同年代のダニエレ・ルスティオーニも《イ・マスナディエリ(群盗)》が良かった。「イタリア若手指揮者三羽烏」のもうひとり、ボローニャのミケーレ・マリオッティも優れた指揮者だと思いますが、まだヴェルディの演奏は聴いていないので、評価は差し控えておきましょう。
 歌手の有望株最右翼は、マリア・アグレスタ。マチェラータで聴いた《アッティラ》のオダベッラは、ドランマーティコ・ダジリタの役を完璧に歌いこなしていたと思います。今年、トリノで《ノルマ》を歌うのでぜひ聴きに行きたいと考えています。
 昨年(2014年)のザツルブルグ音楽祭で話題になった《イル・トロヴァトーレ》は、美術館に舞台を移すヘルマニスの演出に何らの必然性も感じられず、奇をてらっただけのものでした。あんなものが意外にも評判が悪くないらしいのがわけがわからない。パリのチェルニコフ演出の《マクベス》もこんなひどいものは見たことがない、というものでした。
 それに比べると、今回DVDで映像をお見せするベルリンの《イル・トロヴァトーレ》(ネトレプコとドミンゴという主要キャストがザルツブルグと同じ)では、シュテルツェルの演出が単なる奇抜ではない新規性があって面白く、バレンボイムの指揮(スカラ時代などの彼のヴェルディ演奏はあまり好きではなかったのですが)も、これぞヴェルディという音楽の美しさと様式感をしっかり押さえたもので、さすがだと見直しました。ドミンゴのルーナ伯爵も、声がバリトンではないのでシモンやリゴレットでは「暗さ」が足りないとかんじられたが、この役では明るめの声でもそんなに違和感はない。現代のヴェルディ演奏のひとつのあり方を示す例として紹介します。
 
ということで、以下のDVDの主要シーンをその場で鑑賞:
 《イル・トロヴァトーレ》2013年12月ベルリン国立歌劇場公演
指揮:ダニエル・バレンボイム
演出:フィリップ・シュテルツェル、装置:コンラッド・モーリッツ・ラインハルト
衣装:ウルスラ・クトルナ、照明:オラフ・クドーゼ 
レオノーラ:アンナ・ネトレプコ
ルーナ伯爵:プラシド・ドミンゴ
マンリーコ:ガストン・リベロ
アズチェーナ:マリナ・ブルデンスカヤ
フェランド:アドリアン・セムペトレーン

なおこれは、ベルリン国立歌劇場(シュターツオパー)の公演ですが、いわゆる「リンデン・オパー」と呼ばれる本拠の劇場が改修工事中のため、シラー劇場で上演されています。狭い空間を効果的に生かすために、正方形を45度回転させて2辺が客席側に張り出す形の小さな舞台には何も大道具を置かず、後方の2面の壁に移された映像と小道具のみで場面転換。幕間の休憩なしに各幕を連続して見せる、など、舞台進行の面でも新機軸の演出といえるものでした。
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                                       (Simon)
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2015年06月21日

崎保男先生懇話会(6月24日)

『ヴェルディの全オペラ解説』(崎保男著、音楽之友社)は、第1巻(《オベルト》から《マクベス》まで)が2011年1月、第2巻(《群盗》から《ラ・トラヴィアータ》まで)が2012年7月に発行されたあと、待望の完結編第3巻(《シチリアの晩鐘》から《ファルスタッフ》まで)がついに2015年4月30日付で上梓されました。それを記念する会は、崎先生のご希望により「講演会」ではなく「懇話会」として、6月24日の午後6時30分から、上野の東京文化会館4階大会議室で行われます。当日は会場にて、この新刊および第1巻、第2巻の新訂版の販売も行う予定ですので、お楽しみに。
 日本語によるヴェルディの全作品解説は、すでに永竹由幸先生の『ヴェルディのオペラ 全作品の魅力を探る』(2002年2月音楽之友社)がありますが、こちらは437頁の1巻本。各作品について「作曲の経緯」「原作の歴史的背景と台本」「楽曲分析」の三部構成で押さえるべきところは押さえてありますが、随所に独自の解釈が「永竹節」ともいえる語り口で散りばめられているところに特徴があります。
それに対して、この崎先生の著書は、「ヴェルディにおける本作品の位置と意義」、「成立と初演」、「原作と台本」、「ドラマのあらすじ」(シノプシス)、「楽曲解説」という5部構成で詳しくオーソドックスな内容で、オペラ公演やレコード・ヴィデオを鑑賞する前後の手引きとして使えるなど、初心者にも親切な体裁となっています。格調高い文章、学術的な内容と相まって、まさに研究者から一般愛好者まで必携の「教科書」といってよい著作だと思います。
筆者のように、LP時代の豪華装丁全曲盤でオペラを聴き始めた世代にとっては、あの大判のライナーノーツに詳しく書かれた「作品解説」がまさにオペラの世界への手引書でした。その著者として永年にわたり健筆を揮ってこられた崎保男先生が、それらの原稿をベースとしつつも、最新の研究やクリティカル・エディション・スコアの成果も取り入れられて大幅な改訂・推敲を経て完成された本書は、ヴェルディ・ファンとしてまさに待望の書といえます。
初期作品10曲についての解説を収めた第1巻が293頁、中期作品9曲分の第2巻が255頁であるのに対し、後期9曲分の第3巻が340頁(巻末の年表、索引等を除く)と大部となっているのは、《オベルト》初演から《マクベス》初演までが8年、《群盗》初演から《ラ・トラヴィアータ》初演までが6年しか経っていないのに対し、《シチリアの晩鐘》初演から《ファルスタッフ》初演までは実に38年もの歳月が経過していることも関係していそうです。
巨匠となったヴェルディがひとつの作品にじっくり腰を据えて取り組むようになったために「作曲の経緯」で書くことが増えたこと、そして、作品そのものの内容が濃くなって解説すべきことが増えた、ということがあるでしょう。
また、ヴェルディのオペラ作品は、通常、改訂版の《イェルサレム》《アロルド》を入れた場合で28作品と数えますが、実は《マクベス》《シモン・ボッカネグラ》のように後年大幅改訂を加えたもの、《運命の力》《ドン・カルロ》のように外国で初演を行ったあとでイタリア公演版を改訂して作ったもの、逆にパリ公演用にバレエを付け加えたもの、などいくつものヴァージョンがあり、しかもこれらの改訂の大半は《シチリアの晩鐘》よりも後の時期に行われています。さらには、オペラと並ぶ大傑作《レクイエム》もこの時期にあたります。
つまり、第3巻で書くべきことはもともと多かったのです。「作品解説」ですからといって、10作品、9作品、9作品とほぼ等分の3巻編成にした当初の方針そのものがちょっとペース配分を間違えていた、と崎先生ご自身もちょっぴり後悔されていたのではないか、などと勝手に想像しています。
とにかく、既にファルスタッフ完成時のヴェルディの年齢(79歳)を超えるご高齢の崎先生が、最後まで緩むことなく、この名著を完成されたことは本当に素晴らしいこと。お祝いの言葉を申し述たいと思います。
                                    (Simon)
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2015年06月16日

寺倉寛さん講演会(2015年6月12日 大阪市中央公会堂)

同志社大学の学生オーケストラのアマチュア演奏家からプロのヴィオラ奏者となり、テレマン・アンサンブルを経てミラノ・スカラ座の楽団員になってしまったという「どてらい男」寺倉寛さんに、米朝一門の台本を手がける落語作家の小佐田定雄さんが突っ込みをいれる、といういかにも大阪らしい軽妙な上方弁による掛け合い対談会が6月12日に当協会主催で行われました。
会場となった大阪市中央公会堂は、大正7年に竣工したネオ・ルネサンス様式の歴史的建造物。堂々たる赤煉瓦造りの外観は同じ辰野金吾設計の東京駅駅舎に似ています。その大ホールの杮落とし公演は、ロシア歌劇団による《アイーダ》だったそうです。今回の講演会が行われた3階の小集会室も、高い天井にはステンドグラスがはめられた美しい明りとりもある非常に豪華で美しいホールです。
協賛いただいたパナソニック株式会社ご提供のTechnics音響機器からムーティ指揮の《ラ・トラヴィアータ》前奏曲の美しいメロディーを「出囃子(小佐田さんの表現)」として、おふたりが登場。
小佐田さんは、なんとこの日のために事前にミラノ旅行を敢行、寺倉さんに事前インタビューをするとともにスカラ座でオペラを観たり、ヴェルディが作った「音楽家憩いの家」を見学したり、と準備万端。トークは最初から快調でした。スカラ座のバックステージを案内してもらった小佐田さん、寺倉さんを見つけた劇場関係者たちがみんな寺倉さんを「マエストロ!」と呼んで親しげにハグするなど、歓迎するのを見て、その大物ぶりを実感したそうです。
寺倉さんがミラノに渡った経緯については割愛させていただきますが、海外留学先としてミラノを選ばれたのは歌手である奥様が既にそこに在住されていた、ということが理由であったとのこと。(当日は寺倉夫人も小佐田夫人ともに会場におられました。)1年程度の留学のつもりで渡伊したところ、当時スカラ座では弦楽器奏者不足のため外国人にも門戸が開かれるという幸運があってオーディションを受けることになり、見事合格してスカラに入団。それが、1981年12月のことで、以後2007年に60歳で定年退職されるまでの25年間をスカラ座およびスカラ・フィルの団員として活躍されました。
入団当時は芸術監督アッバードの末期の時代で、スカラ座のオケの水準は寺倉さんに言わせると「ひどかった」とのこと。とにかく指揮者を見ていない。どうやって合わせるのかというと、周りに合わせるのだという。だから、指揮者が棒を振り下ろしてもすぐに音が出てこない。「一番槍は血だらけになる」からみんな様子を見ている。そんな独特の表現で寺倉さんのウラ話が次々と繰り出されました。
私のようなシロウトには、当時のスカラの実力は十分ハイレベルであったように思われますが、集団行動が得意で規律を重んじる日本の団体で活動されたプロの目からみるといろいろなご不満があったようです。寺倉さんご自身がヴィオラパートの中で改革運動をするとともに、マエストロ・ムーティの着任によりスカラ座オーケストラの欠点は少しずつ改善されていったとのこと。それでもベルリンやウィーンに肩を並べる世界の超一流オーケストラの水準に達するまでには10年以上を要したそうです。1990年代の終わり頃からムーティが退任する2005年までの期間が、スカラ座オーケストラの絶頂期であったというのが寺倉さんの評価でした。
オケ・ピットの中では自分の楽器を弾くのに一所懸命でオペラ全体を聴く余裕なんてなかった、とおっしゃっていましたが、歌手についてのエピソードもいくつかご紹介くださり、パヴァロッティは音程が甘くて野次り倒されたのに、ドミンゴは舞台の途中で歌い続けることができなくなった時に暖かい拍手で送られた話などのほか、面白かったのは2006年の《アイーダ》公演での例の「アラーニャ・スキャンダル」にまつわるお話。もともとリハーサルの時から指揮者シャイーとアラーニャのテンポが合わない状態だったとのこと。イン・テンポで曲が持つ本来の美しさを表現したい指揮者となるべく粘って声を聴かせたい歌手。普通、本番では破たんを避けるために指揮者が妥協するのが普通でしたが、あの時は両者譲らず、それが原因で客席の大ブーイングとなったというのが真相のようでした。
最後には、日本にもファンが多いバルバラ・フリットリのお話。音楽院在学中の頃から抜擢されて舞台に立つような逸材だったそうですが、もうひとり同時に抜擢された若手歌手が楽屋でも勉強に余念がないのに対して、バルバラはのんびりしたもので若い時から大物ぶりを発揮していたそうです。押しも押されもせぬプリマ・ドンナになった後も、劇場内のカフェテリアなどで顔を合わせると寺倉さんを「マエストロ」と呼ぶ。「やめてください。私は一介の楽団員。ソリストであるあなたの方がマエストラですよ。」と言ったりするのですが、いつのまにかこちらの飲み物代まで払ってくれていたこともある、そんな気さくで気遣いの細やかな素顔を持ったチャーミングな人物とのことでした。
寺倉さんの話はまだまだ続きそうな気配でしたが、時間の関係もあっていったん打ち切り。
実はこの日(6月12日)は寺倉さんの誕生日。最後は、会場に居合わせた同志社大学交響楽団OBで市会議員の野伸生さんの指揮により「ハッピー・バースデイ」の大合唱をサプライズでお贈りして幕となりました。
(Simon)
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